愛の非対称、対等を志向するヘテロ/よしながふみとやおい論1

            

はじめに

私は去年一昨年ごろからよしながふみ先生をリスペクトし始め、東によしながさんがいるとあらば買い、西によしながさんがいるとあらば集めを繰り返してよしなが作品をBLを含め(ってこの人殆どそうだけど)ほぼ集め、とうとう同人誌にまで手を出してしまいました。主にヤフオクで。始まった、私の乙女ロード〜第1章〜

全13章のうち第1章までしか知らないので、相当無謀なことだと思っていますが、これからよしながふみ作品と、やおいボーイズラブについてかなりつっ込んだことを書きたいと思っています。現在プロとして活躍している作家の同人誌を引き合いに出して論じるというのは、ある意味反則ごとかもしれません。特に同人時代からのファンの方は、いいからほっといてよと、私の論に関してネガティヴな意見を持つかもしれません。それでも私はいちよしながファンとして彼女の作品がより深く読まれることを期待して、ホントは外からの反発だけでなく、私自身が触れたくないところまで触れてしまうので非常に怖いのですが、書いてみたいと思います。*ちなみにやおいボーイズラブは厳密に言うと違うものですが、いちいち並べてたら打つのめんどくさいので、女性向けに男性同士の恋愛関係が描かれたフィクション作品のことを「やおい」と一緒くたで呼ばせていただきます。


よしながふみやおいの評価を一変させたか

よしながふみは同人出身でありながらその読者は男女の壁を越え、また、彼女の作品も単なるやおい表現を超え、現代に生きる人間の機微を描いていると高く評価されています。特に主人公二人の恋愛関係だけでなく、彼らを取り囲む人間関係を描くよしながの作風は、『ユリイカ2006年1月号 特集=マンガ批評の最前線』の金田淳子ヤオイ・イズ・アライヴ」で、究極の愛を描く「天動説やおい」と対比する「地動説やおい」の代表として大きく取り上げられています。

「天動説やおい」とは、従来やおいが描いてきた、「究極の対」「究極の愛」というカップル神話を描いたものです。そこでは二人の愛の軌跡が襞を縫うように描かれており、男同士であるにもかかわらず、恋愛、結婚、出産(?!)などの荒唐無稽なファンタジーが存在していることで、やおいは真面目に論じる必要はないと長い間評価される結果にもつながったと私は思っています。一方で評価に値すると論じられるようになったのは、やおい作品のなかに、カップルだけでなく彼らの周囲の人間を描き、二者関係から三者関係へひらいていく「地動説やおい」が登場するようになったからです。

よしながふみも同人、ボーイズラブから『西洋骨董洋菓子店』『愛すべき娘たち』などの非やおい的な作品へ筆を移したことによって、彼女の漫画表現は大きく飛躍しました。今マンガ読みならほとんど知っているだろうと思われる、現在連載中の『フラワー・オブ・ライフ』『大奥』は、こうした彼女の変化によって生み出されたものです。
 

愛の非対称性

ところが彼女の作品が第三者に開かれ、世間から認められるにつれて、一方の同人誌に描かれるカップルの関係が、むしろ閉じていってしまっているような印象を受けたのです。よしながは商業的に成功した現在でさえも精力的に同人誌を描いていますが、その中のひとつ『スラムダンク』の三井×木暮のやおい漫画は特にその傾向が顕著です。三井と木暮が高校生、大学生、社会人へと成長するにつれて、彼らを取り囲んでいたキャラクター達が消え、二人の関係に大きな影響を及ぼすはずの三井の母親が現われても、彼女はフキダシの声や後姿のみでしか描かれません。さらに三井が木暮を支配し依存することによって、二人の関係は強力に閉じていくことになるのです。同人誌のひとつに、このような話があります。

夏休みに旅行へ行こうと約束する二人ですが、その後相手が関係を終わらせようとしているとお互いにカン違いし、連絡をすることを怖れてしまいます。結果二人は三ヶ月も会わず、しびれを切らした三井が木暮を訪ねて一発平手をかました後、連絡をしなかった自分を棚に上げて「死んじまえ てめーなんか」と暴言を吐きます。その後ボッコボコに、それこそ木暮の口が切れて血を流すほど殴った後、「おれを捨てんのか そんなの許さねぇ」とぼろぼろと涙を流した三井に胸キューンと来た後、私ははっと、「しまった…ヤバイ…ここでハマったら戻れなくなる…」と気づきました。

なにがヤバイかというと、彼らの関係は、もし男女のカップルだった場合うわー女に手ぇ挙げやがって最低だなコイツ…とドン引いてしまうような、暴力夫とそれなのにも関わらず別れられない妻と同様の、支配・被支配の関係に他ならないからです。彼らは対等というよりか、むしろドSの三井がM男の木暮にめちゃくちゃ依存している、木暮も強く愛されたいと思うがゆえに三井の罵詈雑言、暴力、レイプまがいの行為を許容してしまう、ぶっちゃけたら二人は共依存状態なのですが、男男だとむしろ激しい愛情の発露、こんなに相手のことを愛しているのねん……(*´Д`)ポワワとドリームしてしまう…。でもこれ冷静に考えたら完全にDV!DV以外の何者でもないのです…

三井と木暮の関係は従来のやおい論に顕著な、攻め/受けイコール男性的/女性的、支配/被支配の関係を描いていますが、それはひとつの例として挙げただけで、現在のやおいカップリングには多様なバリエーションがあります。「わんこ攻め」や「俺様受け」(分からない人は…、ググってください…わんこ攻めは最初獣姦かと思った)などの受け攻めの多様さ、さらにそれをどう組み合わせるかが大きな問題になってくるやおい漫画は、たしかに「位相萌え」であると言えます。

 ただここで私がはっきりとしておきたいのは、いくら少年がオヤジをアンアン言わせていようが、受けが日常的に攻めに暴力を振るっていようが、そこにあるのはあからさまな愛の不平等なのです。やおいに描かれる恋愛関係は、対等というよりか、むしろ往々にして依存的であり、恋愛の非対称性が明らかになるフィクションです。実際、抑圧的なヘテロセクシャルであっても、その縛りがないホモ・バイセクシャルであっても、お互いを同じぐらい愛することなど不可能です。いや僕らは同じだけお互いを愛していますと宣言するカップルがいたとしても、時々の局面においてはどちらか一方が支配し、またどちらか一方が支配されることを選んでいるに違いないのです。

SかMかの二元論で語るウザイお笑い芸人というわけではないのですが、――やおいが男性同士の恋愛ファンタジーで、彼らが決して妊娠することはないとしても――「全てのセックスはレイプである」。つまり二者の力関係があからさまになるのは、恋愛関係をおいては他にないのです。


近代が愛を保障していた

そして私は、恋愛関係を含めた全ての人間関係において、「対等の精神」はありえても、全くの寸分狂わない対等というものはありえないと考えています。対等・平等というものは本来、近代的自我を持った独立した個人の間に発生するものですが、そもそも一人で生きられるような人間は恋愛なんかしないわけです。人は自らを肯定できないからこそ、他者からの肯定を求めてしまう。

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

『愛すべき娘たち』第3話の莢子は、愛の不成立を、その生き方ごと体現した稀有な存在だったと思っています。共産主義者だった祖父から「決して人を分け隔てしてはいけないよ いかなる理由があっても人を差別してはいけない 全ての人に等しくよくしてあげなさい」と育てられ、実際そのように誠実に、純粋に生きた彼女。しかし彼女は結局、誰かを愛するということは、それ以外の人々に分け隔てをもうけて接することだと悟ってしまいます。

ベルリンの壁が崩れたとき、理想の時代が社会主義と共に終焉したとき、近代が保障していた愛の平等という幻想もまた、同じように終わりを迎えたのではないでしょうか。キリスト教のシスターになってしまった結末にはびっくりしましたが、絶対的な倫理も思想もないモダン以降を生きる私たちにとって、不安定な自己を形付けてくれるのは、宗教と恋愛ぐらいしか残っていない。その恋愛からすら疎外された彼女が、神という外部へ向かってしまったことは、オチでも反則でもなく、マンガという表現だからこそ届く、ある種のリアリティとして捉えたいと思います。


対等を志向するヘテロ

ここまでの結論として、やおいとは「究極の愛」を追求するファンタジーであり、またこれを突き詰めるからこそ、描かれる恋愛は往々にして依存的・非対等的な関係になってしまうのではないか、と私は考えています。一方でよしながのやおいを「地動説やおい」たらしめているのは、やおいカップルにとって他者である女性の存在を、美化も貶めもせず読者と同じ等身大の女性として描いているからなのですが、彼女たちは男同士が愛し合い傷つけあうやおいとは対照的に、社会で必死に生きようとする、自立的な女性として描かれています。男性に依存的な女性キャラクターを描くときでさえも、(たとえば『愛すべき〜』の第2話や4話、読みきり「ある五月の日」)あるときは冷徹に、あるときはおかしく、そしてあるときは優しい眼差しで描いています。そこにあるのは、彼女のフェミニズム的な視線です。

1限めはやる気の民法 1 (ビーボーイコミックス)

1限めはやる気の民法 1 (ビーボーイコミックス)

『1間目はやる気の民法』には、主人公カップルのよき理解者・寺田という女性が出てきます。彼女には、付き合っていた彼氏(大学の先生)に勝手に雑誌に裸の写真を送られてしまうという事件が起こり、それによって彼女は窮地に立たされるのですが、機転を利かせてなんとかやり過ごします。確かに、寺田は彼氏のことを訴えるような下手なことはしないし、ひどい言葉を投げかけた担当教官や父親に対して、中指立てて立ち向かうこともしません。彼女は最後に、自分のように理不尽な目に遭っている人がいるなら助けたいと、弁護士になることを決意するのです。

寺田は彼氏を訴えるべきだったかも知れないし、周囲に立ち向かうべきだったかもしれません。政治的にはそれが正しいのでしょう。ただその選択を選んだ時、彼女は今以上に傷つくだろうし、愛していた彼を傷つけることにもなります。男性中心的な社会に対する真正面からの批判ではなく、現実に生きる女性たちが持ちうる精一杯の抵抗を示し、そしてその問題を自己の自立へと持っていった彼女の姿は本当に美しい。そこには決して過激的でも思想的でもない、ごく普通の女性が持ちえるフェミニズムの存在があります。こういう女性像を描けるからこそ、よしながは凄い漫画家なのです。
よしながらの描く女性像は、全てがそうであるとは言えないけれど、悩みながらも成長していこうとする等身大の女性です。やおいは、閉じた二人だけの関係から、このような女性像、家族や友人との関係を提示することで、腐女子だけでなく一般にも広がっていくと考えられ、一方でそうすることによって「究極の愛」を描くやおいジャンルはやおいとしての個性、強度を失っていくと、金田淳子は「ヤオイ〜」の中で述べていました。私もそうだと思います。

ただ私は、こうも思うのです。

「地動説やおい」のなかでは主人公カップルの究極の愛は、周囲との関係の中で相対化されます。そしてそんなヌルいやおいになったとしても、それでも彼女達が表現しようとしていた愛とは何だったのだろうかと。

自立的なセルフイメージと、恋愛幻想を共存させることのできるやおいとは、よしながにとって、そして彼女の読者である私たちにとって、どのような意味を持つのでしょうか。そして男女の関係の中にやおいのような恋愛幻想を描けないとしたら、一体何が私たちを立ち行かせなくしているのでしょうか。



―――というのはまた長くなるので、本題は次回に続きます。とりあえずよしながさんの作品を俯瞰できたのはよかった。凄く時間かかったけど。





フラワー・オブ・ライフ (3) (ウィングス・コミックス)

フラワー・オブ・ライフ (3) (ウィングス・コミックス)

『フラワー・オブ・ライフ』めちゃくちゃおもしろいですね。特にシゲと真島の恋の行方が気になってしまいます。二人の、三十路手前の負け犬と最終形態オタクという組み合わせは、昨今の「もうオタクと付き合うしかない?!」言説を上手いこと外してはるなぁと感心しきりです。またシゲと真島はけっこうなSM関係状態なのですが、小柳先生とのしょっぱい不倫関係と比べギャグテイストなので安心して読めます。ていうか、たぶんシゲはM女なのをやめないと、どっちとくっついても幸せになれない気がします…。シゲ…そんなんでいいの?いや本人が幸せならいいけどむしろ楽しんでそうだし確かに私も真島のようなメガネと付き合いたいよ?でもシゲ…シゲええええええ!!


よしながふみとやおい論2 へつづく