不自由であることより、自由であることの枷を/よしながふみとやおい論2

     
はじめに

前回私は、やおいに描かれる「究極の愛」は往々にして依存的・非対等的であると指摘し、その一方で、自立的あるいは等身大のセルフイメージを投影できる女性像を描いているということも指摘しました。今から書くことをちょっとだけでも注意して読んで欲しいのですが、これから書くこと内容によって、おそらく私は結局なくてもいいような混乱を引き起こすかもしれません。というかたぶんそうです…。

ただ、やおいを含めたサブカルチャーを、社会や主体に引きつけて考え発言することは、それ以上に余計な問題を惹起してしまうだけなのでしょうか。だからそんなことは置いておいて、表現論やメディア論に特化して論じるべき?いや、そうじゃない。私はそうは思いません。余計な問題を引き起こすのならなおさら、漫画論をお互いの思想を押しつけあう場所として捉えるのではなく、それを包括した、新たなステップに立つために、作者や読者、そして社会の問題として論じるべきではないでしょうか。もちろん、漫画を表現論として論じることは、全く違う次元において、非常に重要なことです。ただ少なくとも私は、自分の発言が政治的な意味を帯びることを恐れたくない。

そのことを頭の隅にでも入れていただいて、これから私が書くことを読んでいただきたいと思っています。ではまた、相当長いのでお茶でも飲みながらお読みください。たぶん吹き出すようなことは書かない…つもりです。


恋愛という罠、そして解放

やおいが発生する以前の少女漫画の基本的なモチーフは、自分のことをドジでブスで駄目だと思っている女の子が、憧れの男の子に「そんな君が好きだ」と言われて安心すること、つまり「他者からの自己肯定」にありました。70年代半ばから一大ジャンルとなって、そして消えていった「乙女ちっく漫画」とは、その主題を完璧に描いたものです。現在の少女漫画の主流もまぁ、その当時とあまり変わっていませんけど。

少女漫画の主人公たち―少女たちは皆、この世にただひとりの相手と愛し合って結婚することを、至上の目的とし、相手をそのように愛すべきだと思っています。そしてその愛が深ければ深いほど、自分も相手から深く愛され、二人はひとつになることが出来ると信じています。

少女漫画評論家藤本由香里は『私の居場所はどこにあるの?―少女マンガが映す心のかたち』のなかで、そのような「オンリー・ユー・フォーエバー」つまり恋愛幻想は、決して少女たちを幸福には導かないだろうと看破しました。そのような恋愛は確かに美しいけれど、愛とは結局自分たち女性が、男性のために犠牲になることを強いるだけです。愛の、その本質が非対等的なものである限り、彼女たちは恋愛によって幸せにはなれないのです。そして藤本はその恋愛幻想を、「罠」と呼び、そこからの解放こそが、唯一女性が幸福を手に入れる道であると解き明かしました。

乙女ちっく漫画は、他でもない彼女たち自身が、その罠に気づいたときに急速に衰えました。そして80年代以降、欲望を肯定し自分らしく生きていく女性たちが、少女漫画のなかで数多く描かれるようになったのです。柴門ふみ東京ラブストーリー』で、家庭的でおとなしい、まるでかつての「乙女ちっく漫画」の主人公のようなさとみは、読者から「ぶりっこ」と嫌われ、一方で自分の欲望をはっきりと示す赤名リカが読者の共感を得ていたという事実は、少なくとも女性たちが受身でいることから脱却して、積極的に生きる姿勢を選ぼうとしていた現実を反映していたからだと思います。


恋愛という幻想、そして断念

一方宮台真司大塚英志の文庫本『『りぼん』のふろくと乙女ちっくの時代―たそがれ時にみつけたもの (ちくま文庫)』の解説のなかで、以下のように書いています。彼は自分が熱心な「乙女ちっく漫画」の読者であった過去を例にとって、いつまでも変わらない男性たちと、その男性達を置いて変わっていく女性たちを対比させてこう言います。

ニヒリスティックになった私は、受動的に流されるように女の子たちと適当に寝ながら、それでも彼女達のことがよく分からないでいた。私は相変わらず少女マンガやファンタジーが好きなままで、何というか「そういう部分」はぜんぜん変わらずに大人になったのに、目の前にいる現実の女の子はどうもそうではないらしく、とても「そういう話」ができるような雰囲気ではなかった。(中略)実際にまわりを見まわしてみると、私と同世代のライターのなかには、「昔サブカルチャー少年で、今も変わらずサブカルチャー少年」という輩が、もちろん私自身を含めてそれこそ腐るほどいる。それに比べると、「昔サブカルチャー少女で、いまも変わらずサブカルチャー少女」というのは、どういうわけかあまりいなくて、たとえいたとしても、相当に屈折した子だったりする。だから、私と同じように職業柄女性に接する機会が多い大塚氏が、同世代の「変わらない男たち」に対して、「いい加減に成熟したら?」と言いたくなる気持ちも、分からないではないのだ。
男の子たちは何も諦めないで、「そのまんま」大人になれるのに、女の子たちは「本当にたくさん断念して」大人になる。それはいったい、なぜなのだろう?

ここで彼が言う「彼女達が“断念”したもの」と、藤本が“罠”と呼んでいたものは同じものだと私は思います。それは「乙女ちっく漫画」が求めていた、「たったひとりの相手との、永遠の恋愛」に他なりません。女性である藤本は、それを罠と捉え、その幻想が共有されなくなったことを解放と呼んでいますが、男性である宮台にとって、それは女性たちによる幻想の断念、諦観なのです。

ここで私はひとつの疑問にたどり着きます。私たちはその幻想から、きっぱりと解放されたのだろうか。宮台の言うようにそれが“断念”だったとするならば、その「幻想」は一体どこに消えたのだろうか。


かくてやおいは誕生す―フェミニズムの抑圧下に、やおいは生まれた

たぶん私たちは、知りすぎるほど知りすぎているのです。愛とは非対等的であり、それを信じている限り幸福は訪れないだろうということを。結局はひとりで、幸福を手にしなければならないことを。そして実際にフェミニズムは女性の独立を説き、男女の平等を説きました。

しかしその事実を目の当りにしたとしても、それでも捨てきれない「究極の愛」という幻想は、女性にとって最も遠い、そしてそれゆえ強力なファンタジー―「やおい」−に受け継がれたのではないでしょうか。つまり、男と女は平等であらねばならない、というフェミニズムの抑圧下に、「やおい」というファンタジーは生まれたのです。

やおいの源流は、70年代に少女マンガ24年組による少年愛作品──『日出処の天子』、『ポーの一族』、『風と木の詩』──などとされていますが、私は「ただひとつの恋愛と、幸福な家庭」という幻想を描いた「乙女ちっく漫画」にこそ、「やおい精神」の源流があると思います。なぜならその後「母性」との対立を描いた24年組とは対照的に、やおいは「母性」を肯定してしまうから。やおいに描かれる「究極の愛」とは結局、自分を完全に肯定してくれる(はずの)母親の愛、母子関係の延長にしか過ぎないからです。(「少年愛」と「やおい」の違いについては、自分でも説明不足だと思っています。しかし、そこを詳しく説明していると恐ろしく長くなってしまうので、また別の機会にじっくりと論じたいと思います。)

フェミニズムには、「母性」に対し二つの側面があります。ひとつはその「母性」を、女性の身体性として肯定する側面。もうひとつはその「母性」を、女性を家庭に縛りつける「幻想」として否定する側面。「母性幻想」とは、このようなフェミニズムによる問いから生まれたものです。そしてその「母性」を肯定してしまう「やおい」とは、「恋愛」と「家庭」を志向した「乙女ちっく漫画」の後継者としてふさわしい。事実、まるで「乙女ちっく漫画」と入れ違うように、やおいは誕生しました。

内面化されたフェミニズムが、「恋愛幻想」を排除したとき、両者のパワーバランスが明らかになる恋愛を描くことは、非常に困難なことになります。ここで前回私が提示した「自立的なセルフイメージと、永遠の愛という幻想」という言葉を思い出してください。やおいとは、その本来両立しないふたつの欲望を、齟齬なく成り立たせることの出来る(おそらく唯一の)メディアなのです。

そしてフェミニズム的な批判が、どうもやおいの本質に届かないのは、それはやおいフェミニズムの抑圧の産物だからです。「やおいは男性支配を再生産しているのか?」って、フェミニズム的観点からみたらそれはそうでしょう。男尊女卑的な社会の抑圧がフェミニズムを生み出したなら、フェミニズムの抑圧によって誕生したやおいとそれは、かたちとしては類似してしまうから。

やおいを、ホモフォビックな表現として捉える論−溝口彰子「ホモフォビックなホモ、愛ゆえのレイプ、そしてクィアレズビアン」(『クィア・ジャパンVol.2』掲載)−がありますが、たぶんやおいはホモフォビックというかよりか、究極的にモノガミックだから、「男が好き」というゲイ・アイデンティティーが邪魔なのだと思います…。もちろんそれが、女性としてのセルフイメージの保持のためだけの産物なのだとしたら、やおいホモフォビア以外の何ものでもないのですが。

自立的な自己像を守りながら、男性の同性愛を描くことで恋愛幻想を満たすやおいという表現。それは、なんて都合のよくて優しい、そしてなんて残酷な表現なのでしょうか。やおいが「天動説」から「地動説」になって、そしてどんどんやおいとしての個性を失っていくとしても、私は、やおいはなくなるどころかむしろもっと広がっていくと考えています。フェミニズムが、ではなく、「近代」が、人間の個人としての自立を尊ぶのなら、そうなってくことで引き起こされる孤独感は、別の何かに解消されるしかないと思っているから。やおいを病気だというなら、それは「近代」が引き起こした病に他ならないと思います。


男女逆転時代劇『大奥』

大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))

大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))

よしながが今、やおいというファンタジーから脱却し、女性としてのリアルな葛藤を『愛すべき娘たち』で描き、そして『大奥』で、他ならぬ男女の関係を問い直そうとしていることは、彼女の大きな成長であると思っています。

『大奥』は、架空の江戸時代、男だけが感染する伝染病が流行った後、男女の人工比が非常に不均衡になった日本を描いています。仕事は女性が行い、家も女性が継ぐようになり、一方で体が弱くなり、数も少ない男性は、他の家に嫁ぐか女性たちに囲われる生活をしています。そして将軍も男性ではなく女性であり、そして大奥に集められたのも、容姿端麗な男性ばかりです。そこに奉公に出た下級武士の男性から、大奥の頂点に君臨する将軍、そして男女の役割が逆転した「大奥」の、はじまりに視点がシフトし、物語は進んでいきます。

そこに描かれる男女関係とは、ただ規範的な男女関係が逆転しただけのなのでしょうか。男性は女性に依存し、女性は男性を支配するだけなのでしょうか。それともそのような転倒した形でしか成り立たない、ありえない「愛の対等」がそこにはあるのだとしたら。


不自由であることより、自由であることの枷を

フォローとして、つーかカン違いすんなよとして言いたいのは、私はフェミ二ズムの抑圧下にやおいボーイズラブが生まれたからといって、やおいを否定するわけでも、ましてやフェミ二ズムを否定するわけではありません。そこんとこ非モテ男子とフェミの人よろしく。内田樹センセイが「エビちゃん的クライシス」で、最近の学生がフェミニズムのこと知らないのってそれってやばいんじゃないの?フェミニストさん?と嫌味を言っていましたが、それが彼女達が女であることにそれほど屈託を感じず今まで生きてこられた結果なら、フェミニズムが誇っていいことだと思います。

私は男に生まれたかったけど、なんで女に生まれたんだろうと思ってたけど、もうここまで来たらどっちに生まれても大して変わらない、こっから先は自分自身の問題だなと素直に思えるようになってきました。それは先人たちが、男性社会のなかで必死で男女平等を説いて社会の意識を変え、法律を整備してきてくれたおかげです。感謝しています。(という、決して自分がバックラッシャーでないことの必死のアピール)

ただ、こうも思うのです。あぁ、私たちは、こんなに遠くにまで来てしまったのか、と。恋愛が結婚を保障し、そして「幸せな家庭」を保障すると信じることの出来た時代から、そしてその「幻想」を生きることが出来た「現実」があった時代から、こんなにまで遠くはなれてしまったのだ、と。

しかし時計の針は、決して戻すことはできません。



私達がすべきことは、もはや生きることができない「幻想」に戻ることでも、「現実」に絶望して生きることでもありません。あなたと、あなたの恋人、パートナー、家族、友人その他との関係のなかで、新たに「現実」と「幻想」の姿を問い直すことだ。そして「現実」と「幻想」のせめぎあいのなかに、今を生きるだけの強さと、未来への可能性を見つけ出すことだ。

なぜならば私たちは、不自由であることより、自由であることの枷を選んだのだから。