やがて父は穏やかに死ぬ 松井優征『魔人探偵脳噛ネウロ』

   

明日(卒論)のためにその1

今週掲載順位が上位だったのと、一番好きなキャラ弥子ちゃんが大活躍でちょっと幸せな私です。

魔人探偵脳噛ネウロ 1 (ジャンプコミックス)

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魔人探偵脳噛ネウロ 8 (ジャンプコミックス)

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ポストジャンプ的なネウロ
ぶっとんだ犯人や犯行シーンのみならず、コメリカ合衆国ネトゲ廃人などの社会風刺でジャンプでも相当異色作のネウロ。さすが21世紀のダダイスト松井優征ですね。そんなネウロは友情・努力・勝利という「ジャンプ三原則」からもっとも遠い作品であると言われていますが、私はネウロはその三原則を完全に否定することによって、むしろ一番その三原則に近づく可能性のある作品ではないかと(希望的観測も込めて)思っています。確かに、ネウロは弥子その他の人間を奴隷の如くに扱い、努力などしなくても人知を超えた能力で勝利します。が、しかしそれは「物語」の性質上、決して不変ではないのです。物語が進行すればするほど、初期設定の三原則否定の構造は変化を迫られるだろうし、そしてそれは新たに三原則の構築へと向かうはずです。超越的存在であるネウロがその地位から落ち人間に近づく一方で、ネウロの支配から脱して成長していこうとする少女が描かれる。その対比は逆説的に、うまく「親殺し」の出来なくなっている少年漫画の閉塞感を、するりと抜け出すだけの強度を持っていると思います。


ネウロ=父説
初回弥子の父親の死を境にして、ネウロが彼女の前に現れるのは決して偶然ではありません。冒頭たった一人の父親が死んだ割には、弥子の悲しみは「自分の父親が死んだら悲しいのは当たり前」と紋切り型以上のものにはならないのです。おそらく優しくて、それゆえ存在感の希薄な父親は、好ましい父親ではあっても、たとえば星一徹のように息子を導き、立ちはだかる超越者としての「父」ではない。そもそも少女である弥子と父親の間には、エディプス的な成長譚は描きようもないのです。

デフォルトでの「父」の不在の中、ネウロは弥子の日常に、不条理と暴力を侵入させます。食の千年王国のシロタ、ぶっちゃけたいののヒステリア、白人根性丸出しのライスetc……、毎回登場する犯人たちはことごとくアレな人たちですが、究極の謎を求めるネウロは、それ以上の不条理さを持って犯人たちを叩き潰します。つまり犯人たちの引き起こすカオスは、よりカオスなネウロの存在によって保証されているのです。秩序よりも混沌を、日常よりも非日常を選ぶネウロヒエラルキーの頂点に立つことによって、いきおい善悪の境界は曖昧になります。『魔人探偵脳噛ネウロ』が善悪や倫理から遠く離れたところにあるという印象を受けるのは、主人公のネウロがその混沌とした世界を創造し、その世界に君臨しているからです。そしてネウロは強大な力を持ってこの世界の「神」あるいは「父」となり、弥子を支配し導いていきます。


父(ルーツ)なき子としてのX
私が『ネウロ』でもっとも評価するのは、少年漫画のテーゼを引っくり返すかもしれない、X(サイ)という強烈なキャラクターを描いていることなんですが、もう目から鱗が2,3枚落っこちました。マジです。うわー男性なのにこんなの描けちゃうんだとびっくりしました。自分が何者なのか分からないから、他人を殺して箱にして観察することで自分の正体を知ろうとするX。ネウロと出会ったXは、自分に一番近いかもしれないネウロを倒して、逆に自分自身を覗こうとします。自己を自己として認識するためには、まず他者と自己との差異を見つけ出さなければならない、つまり他者なしには自己もまたありえない。ところがXは、強くなればなるほど、むしろ人間から離れた、得体の知れない化け物になり、自分の記憶を失ってゆきます。強くなればなるほどアイデンティティを喪失する彼の姿は、少年漫画の主人公と表裏一体、ネガとポジの関係になっています。

Dの一族であるルフィ、九尾の妖狐を封印されたナルト、サイヤ人の末裔である悟空…少年漫画の主人公たちには、常に自己の出生にまつわる物語が存在しています。不幸な出自、あるいは自らの出自が不明瞭な彼らはだからこそ、おしなべて本当の親を探すべく、ここではない何処かへと駆り立てられます。少年漫画とは、自らのルーツを巡る物語、父と子の物語でもあるのです。

しかしXは違う。彼が自分のルーツをどれだけ求めても、そこには何もないのです。やっと自分に近いネウロと出会っても、ネウロは彼とは逆に「どんどん弱くなって、人間に近づいていく」たとえネウロ=父を殺してたとしても、もはやその父は超越的存在ではなく、ゆえに彼のアイデンティティクライシスは永遠に解決しない。自分の性別も分からないと言うXはしかし、一方で自らのことを「俺」と呼びます。つまりXは両性具有的な存在というよりか、大人の男性になることの出来ない少年、性的に未分化なモノセックスな存在としてある。「父」のいない彼は結局、大人になることは出来ないのです。

Xはどうしようもなく不幸な存在です。父なき存在のXは、ネウロに父を求め勝利しようとしますが、しかしその父はというと、超越的存在から転落しただの人間になってしまう。そんなXはネウロとの戦いの前にこう言います。「ゴトリと入れ替わる記憶の中で…その時にだけ一瞬横切る影がある 変異が作り出した偶然の影か それとも 俺の本当の正体の記憶なのか」脳裏によぎる影とは、それは他でもない、まだ見ぬ父の影ではないのか。


だけどネウロは弱くならなければならない(のだ!)

最初はどSの変態魔人に翻弄されまくりの弥子ですが、さまざまな人間に出会うことで、彼女は自分に出来て、ネウロには出来ないことを手探りで模索していきます。無敵であるがゆえに、人間の心が分からない(そして興味がある)ネウロは、弥子に犯人の心理を探らせることによって、彼女の成長を促します。アヤエイジアは言う、ネウロはいつかあなたの真の力を必要とするはずだと。吾代は言います、やっかいなのはもう一人の上司のほうかもしれないと。外側の謎を解くネウロと、内側の心を読もうとする弥子との対比。二人の関係は最初の支配し支配される父子的関係から、そうではないパートナーシップを含んだ(ヘテロな)関係へとシフトしていくはずです。只の人間に近づいていくネウロの変化と、ゾウリムシからワラジムシへ、ワラジムシからセミへ、…そしていつかは人間になるだろう弥子ちゃんの成長の過程は、いつかどこかでぶつかり、そこでたぶん「人間」は肯定される。その時失われた友情・努力・勝利の三原則は、新たな地平に向かうだろうと思いたいのです。一方「新世界の神となる」と宣言した主人公が死んで終る『DEATH NOTE』のほうは非ジャンプ的ではあっても、ポストジャンプ的な作品ではない。善悪が無効化したところから出発しているネウロのほうが、よっぽど上手く善悪と人間をテーマにしていると思いませぬかそこの貴方。

だからネウロは絶対に弱くなって、人間にならなきゃいけないのです!我輩、只の人間になっているってゆってる割には、どっこい人間をちぎっては投げちぎっては投げのやりたい放題ですが、私はねぇもうどんどん弱くなってほしい。ただのアンチャンになってほしい。んで最終回直前、ほとんど人間に近づいたネウロが、弥子ちゃんと一緒に普通にご飯食べてくれたらもう萌え死ねる。我が人生に一片の悔いなし。一緒にご飯食べるって親密さの現れだし、「食」が裏テーマのネウロにはぴったりのクライマックスだと思うんです。なのでこれから先、たとえジャンプをしょって支える大人気コミックになったとしても、絶対連載の引き伸ばしはしないでほしいです。このまま中堅あたりの人気で円満終了してほしいなーなんて。いや、ジャンプ的なものを否定したところから始まった『ネウロ』は、決して力のインフレ化には陥らないはずです。ネウロの存在こそが、そうならないための予防線になっていると思うから。