ブロガーの死 あるいはブログの始まり

無断リンク問題で渦中の某さんとチャットで話した。その1
その2 その3

ひとごとではないよなぁ…と思いながら読みました。
あの、すっごく不用意な感想なんですけど、   *1さんってパラノイアですよね。当然、こっちは心理学の専門でもなんでもないので、ここで言うパラノイアとは精神の病としてのでそれではまったくありません。ニューアカとかが言うスキゾキッズと対比する、人の性格の傾向を指す「パラノ」のことです。もちろん人を捕まえてあなたはこういう性格だ!と言うのはとても失礼なことだし、特に彼女は他人に言及されるのをひどく嫌がりそうなので二重に失礼なのですが、でも彼女のそういう在り方こそがパラノっぽいなぁ…と思う所以でもあるのです。

ページ単体にリンク禁止(でもトップページにはOK)という主張は、ただ単に荒らし回避のためやまたマナーとかネチケットの問題ではなく、自分の書いたものを全てコントロールしたい、自分のあずかり知らぬところで自分のことに言及して欲しくないという彼女自身の欲望の表れだと思います。それでたとえ皆がトップページのみにリンクしたとしても、自分に関する言及をコントロール下に置けるかといえばそれはまったくの幻想なのですが、少なくとも彼女の中では成り立つ理論なんですよね。

確かに彼女は極端すぎるのですが、でも彼女のような気持ちになったことはみんな一度はあるのではないでしょうか。私も自分の記事にはてブコメントしたいちユーザーに、「てめー!だからそれは違うって言ってんだろが!!ばーかばーか」と胸ぐらを掴んでブンブン振り回してやりたい衝動に駆られたことがあったし、もちろん記事に批判的な意見がついていたらものすごく凹みます。私が語った言葉は私の言葉だと言い、そしてその言葉に担保される「主体」に執着している私が、確かにそこには存在している。

そもそもインターネット自体が、私的な言葉であふれているのと同時に、その言葉が発話者の意図を超えて不特定多数に享受されていくという、相反するふたつのファクターを持っていることが問題なんじゃないかなと思います。そしてインターネットの特性の重要性は、後者のほうにあります。それは無数のウェブサイトとリンクし、膨大な書き手に開かれ、先行するテクストからの引用と接合を無限に繰り返している。そこでテクストの起源を探し当てるのは不可能に近いし、自分が自分であるということに固執する「書く」ブロガーは嫌われ、むしろ主体であることを放棄した、対話し、模倣し、いがみ合う「読む」ブロガーが増殖していく。ロラン・バルトは「作者の死」という有名な言葉を残しましたが、それを私はまさしく“模倣”して、「ブログの誕生は、ブロガーの死を持って贖わなければならない」と言い換えたいと思います。

たぶんね、だから「ネットで嫌な思いをしました」という自分の体験意見を、それをネチケットやマナーという公の問題にしたいなら、まず「自分が主体である」ことを諦めなければいけないんじゃないかな。ネット上に公開されたテクストは、私の手から離れ、繋がりあい、増殖し、変化を迫られるのが常なのだから。

しかし、逆に言うとまったく私的な「私語り」がめんどくさい手続きをすっとばして、そのまま公の言葉となる可能性もあることも知っておいたほうがいい。   さんの言う主張は私的なものであって、その   さんのあり方が「私であること」で留まったままでも、今や   さんをめぐる言説は公的な(ネット上の)問題に実際なっています。それにネットの得体の知れなさを感じて、そら怖ろしく思ってしまうのは私だけでしょうか。

*1:伏字にしたんですけど、逆に失礼じゃないか?…コレ