シミュラークルの臨界点

2ちゃんねるコピペサイトが軒並み閉鎖を余儀なくされています。和田義彦盗作疑惑もそうだし、そのほかにもこれは少し前の事例ですが、村上隆のDOB君著作権騒動だったりとかのまネコ問題とか、著作権問題には話題が本当に事欠かない。
サイトが実際に儲けているかどうかは、この問題にあまり関係がないと私は思っています。アフィリエイト貼り付けなければ著作権に関して免罪されるというわけでもないし。そんなこと言ったら2ちゃん系以外のネタ系ブログ、ニュースサイトだって著作権引っかかります。私のだって著作権引っかかりまくり…。高度消費社会以降に生きる限りは既存の作品をコピーし、パロディ化しなければ新しい作品を生み出すことはできません。むしろ私達は社会や世間をどこか信じきれないゆえに、2次消費物のほうにより親和性を感じてしまいます。

「他人のふんどしで相撲を取るな」「パクリ」とVIPPERの皆さんは批判しますが、どっこい批判している人たちのいる2ちゃんねる自身も、コピペ改変やAA(アスキーアート)の手法に表されるように、既存のアニメや漫画、歌などのポップカルチャー、さらには北朝鮮や日韓中外交などの社会問題、ホリエモンに美代子の実在の人物など、社会自体をパロディ化することによって成り立っています。もはや懐かしい「もすかう」「恋のマイアヒ」「VIP☆STAR」、最近では「黄門様から大切なお知らせとお願い」ですか、あれも全て既存の作品のパロディでしかありません。自分はパクるのはいいけど、パクられるのは嫌よという言い分が通るのは、ひとえに2ちゃんねるが絶対的に外部からメタレベルに立とうとする共同体であるからと私は考えています。

村上隆の「私が生きている現代アートの世界はオリジナルであることが絶対的な生命線です。」という言葉に象徴されるように、もはや作品を作る場所においては、オリジナルをいかにコピーするかに作り手としてのオリジナリティが発揮されると考えられています。ここではむしろ作り手と受け手が同等であるというよりも、むしろ作り手を越えていかにそれをズラすか、つまりよりメタレベルに立つことに特権性が求められています。

2ちゃんという内部にいる限りはどんな引用もパロディも許されますが、外部にそれを持ち出すことは特権性の剥奪、2ちゃんねるという共同体の崩壊を意味します。特に今まで問題にならなかったまとめサイトは、あくまでもまとめであるのでサイトの管理をスレの一住民が行い、利用するのもそのスレの住民です。そこでは2ちゃんの共同体がそのまま保持されることになり、特権性を脅かす他者は存在しなかった。せっかくサイト作って掲示板も用意したならそっちでカキコすればいいのに、メインはやっぱり2ちゃんのスレでありまとめサイトは補助的なものでしかないのです。(たぶん住民しか見ないからアフィ貼っても怒られなかったと思います。)ところが今回問題になったサイトは、2ちゃんを引用・転載し不特定多数に晒すことによって、さらに2ちゃんが外部と交換可能であることをアフィで明らかにしてしまうことによって、外部から常にメタレベルに立とうとする2ちゃんねるの特権性を侵してしまいました。

2ちゃんねるはすべての商品、社会問題や事件を飲み込みオリジナルのコピー、コピーのコピーを生み出しました。しかしもうそこからそのコピーはどこへも行くことができない。そこで、全てのシミュラークルが生まれそして消えていきます。つまり2ちゃんねる便所の落書き痰壷であるのと同時に、シミュラークルの墓場でもあるのです。

しかし、2ちゃんねるはその特権性を守るにはあまりにも巨大になりすぎてしまっています。そしてその図体を保持していくには、外部に対して今回のように攻撃を仕掛けるなど、閉鎖的にならざるを得ません。

「物語消費論」で大塚英志は、生産者と消費者の境界のない消費社会が到来すると予言しましたが、それは電波男が夢見る幸福なユートピアでは決してなく、どちらがよりメタレベルに立っているのかを巡って熾烈な抗争を続ける、殺伐としたサザンクロスシティみたいな世界だと私は想像しています。それが記号としての<モノ>と戯れ続けた私達の、終点が玉座の間とは上出来じゃないか。