不自由であることより、自由であることの枷を/よしながふみとやおい論2

     
はじめに

前回私は、やおいに描かれる「究極の愛」は往々にして依存的・非対等的であると指摘し、その一方で、自立的あるいは等身大のセルフイメージを投影できる女性像を描いているということも指摘しました。今から書くことをちょっとだけでも注意して読んで欲しいのですが、これから書くこと内容によって、おそらく私は結局なくてもいいような混乱を引き起こすかもしれません。というかたぶんそうです…。

ただ、やおいを含めたサブカルチャーを、社会や主体に引きつけて考え発言することは、それ以上に余計な問題を惹起してしまうだけなのでしょうか。だからそんなことは置いておいて、表現論やメディア論に特化して論じるべき?いや、そうじゃない。私はそうは思いません。余計な問題を引き起こすのならなおさら、漫画論をお互いの思想を押しつけあう場所として捉えるのではなく、それを包括した、新たなステップに立つために、作者や読者、そして社会の問題として論じるべきではないでしょうか。もちろん、漫画を表現論として論じることは、全く違う次元において、非常に重要なことです。ただ少なくとも私は、自分の発言が政治的な意味を帯びることを恐れたくない。

そのことを頭の隅にでも入れていただいて、これから私が書くことを読んでいただきたいと思っています。ではまた、相当長いのでお茶でも飲みながらお読みください。たぶん吹き出すようなことは書かない…つもりです。


恋愛という罠、そして解放

やおいが発生する以前の少女漫画の基本的なモチーフは、自分のことをドジでブスで駄目だと思っている女の子が、憧れの男の子に「そんな君が好きだ」と言われて安心すること、つまり「他者からの自己肯定」にありました。70年代半ばから一大ジャンルとなって、そして消えていった「乙女ちっく漫画」とは、その主題を完璧に描いたものです。現在の少女漫画の主流もまぁ、その当時とあまり変わっていませんけど。

少女漫画の主人公たち―少女たちは皆、この世にただひとりの相手と愛し合って結婚することを、至上の目的とし、相手をそのように愛すべきだと思っています。そしてその愛が深ければ深いほど、自分も相手から深く愛され、二人はひとつになることが出来ると信じています。

少女漫画評論家藤本由香里は『私の居場所はどこにあるの?―少女マンガが映す心のかたち』のなかで、そのような「オンリー・ユー・フォーエバー」つまり恋愛幻想は、決して少女たちを幸福には導かないだろうと看破しました。そのような恋愛は確かに美しいけれど、愛とは結局自分たち女性が、男性のために犠牲になることを強いるだけです。愛の、その本質が非対等的なものである限り、彼女たちは恋愛によって幸せにはなれないのです。そして藤本はその恋愛幻想を、「罠」と呼び、そこからの解放こそが、唯一女性が幸福を手に入れる道であると解き明かしました。

乙女ちっく漫画は、他でもない彼女たち自身が、その罠に気づいたときに急速に衰えました。そして80年代以降、欲望を肯定し自分らしく生きていく女性たちが、少女漫画のなかで数多く描かれるようになったのです。柴門ふみ東京ラブストーリー』で、家庭的でおとなしい、まるでかつての「乙女ちっく漫画」の主人公のようなさとみは、読者から「ぶりっこ」と嫌われ、一方で自分の欲望をはっきりと示す赤名リカが読者の共感を得ていたという事実は、少なくとも女性たちが受身でいることから脱却して、積極的に生きる姿勢を選ぼうとしていた現実を反映していたからだと思います。


恋愛という幻想、そして断念

一方宮台真司大塚英志の文庫本『『りぼん』のふろくと乙女ちっくの時代―たそがれ時にみつけたもの (ちくま文庫)』の解説のなかで、以下のように書いています。彼は自分が熱心な「乙女ちっく漫画」の読者であった過去を例にとって、いつまでも変わらない男性たちと、その男性達を置いて変わっていく女性たちを対比させてこう言います。

ニヒリスティックになった私は、受動的に流されるように女の子たちと適当に寝ながら、それでも彼女達のことがよく分からないでいた。私は相変わらず少女マンガやファンタジーが好きなままで、何というか「そういう部分」はぜんぜん変わらずに大人になったのに、目の前にいる現実の女の子はどうもそうではないらしく、とても「そういう話」ができるような雰囲気ではなかった。(中略)実際にまわりを見まわしてみると、私と同世代のライターのなかには、「昔サブカルチャー少年で、今も変わらずサブカルチャー少年」という輩が、もちろん私自身を含めてそれこそ腐るほどいる。それに比べると、「昔サブカルチャー少女で、いまも変わらずサブカルチャー少女」というのは、どういうわけかあまりいなくて、たとえいたとしても、相当に屈折した子だったりする。だから、私と同じように職業柄女性に接する機会が多い大塚氏が、同世代の「変わらない男たち」に対して、「いい加減に成熟したら?」と言いたくなる気持ちも、分からないではないのだ。
男の子たちは何も諦めないで、「そのまんま」大人になれるのに、女の子たちは「本当にたくさん断念して」大人になる。それはいったい、なぜなのだろう?

ここで彼が言う「彼女達が“断念”したもの」と、藤本が“罠”と呼んでいたものは同じものだと私は思います。それは「乙女ちっく漫画」が求めていた、「たったひとりの相手との、永遠の恋愛」に他なりません。女性である藤本は、それを罠と捉え、その幻想が共有されなくなったことを解放と呼んでいますが、男性である宮台にとって、それは女性たちによる幻想の断念、諦観なのです。

ここで私はひとつの疑問にたどり着きます。私たちはその幻想から、きっぱりと解放されたのだろうか。宮台の言うようにそれが“断念”だったとするならば、その「幻想」は一体どこに消えたのだろうか。


かくてやおいは誕生す―フェミニズムの抑圧下に、やおいは生まれた

たぶん私たちは、知りすぎるほど知りすぎているのです。愛とは非対等的であり、それを信じている限り幸福は訪れないだろうということを。結局はひとりで、幸福を手にしなければならないことを。そして実際にフェミニズムは女性の独立を説き、男女の平等を説きました。

しかしその事実を目の当りにしたとしても、それでも捨てきれない「究極の愛」という幻想は、女性にとって最も遠い、そしてそれゆえ強力なファンタジー―「やおい」−に受け継がれたのではないでしょうか。つまり、男と女は平等であらねばならない、というフェミニズムの抑圧下に、「やおい」というファンタジーは生まれたのです。

やおいの源流は、70年代に少女マンガ24年組による少年愛作品──『日出処の天子』、『ポーの一族』、『風と木の詩』──などとされていますが、私は「ただひとつの恋愛と、幸福な家庭」という幻想を描いた「乙女ちっく漫画」にこそ、「やおい精神」の源流があると思います。なぜならその後「母性」との対立を描いた24年組とは対照的に、やおいは「母性」を肯定してしまうから。やおいに描かれる「究極の愛」とは結局、自分を完全に肯定してくれる(はずの)母親の愛、母子関係の延長にしか過ぎないからです。(「少年愛」と「やおい」の違いについては、自分でも説明不足だと思っています。しかし、そこを詳しく説明していると恐ろしく長くなってしまうので、また別の機会にじっくりと論じたいと思います。)

フェミニズムには、「母性」に対し二つの側面があります。ひとつはその「母性」を、女性の身体性として肯定する側面。もうひとつはその「母性」を、女性を家庭に縛りつける「幻想」として否定する側面。「母性幻想」とは、このようなフェミニズムによる問いから生まれたものです。そしてその「母性」を肯定してしまう「やおい」とは、「恋愛」と「家庭」を志向した「乙女ちっく漫画」の後継者としてふさわしい。事実、まるで「乙女ちっく漫画」と入れ違うように、やおいは誕生しました。

内面化されたフェミニズムが、「恋愛幻想」を排除したとき、両者のパワーバランスが明らかになる恋愛を描くことは、非常に困難なことになります。ここで前回私が提示した「自立的なセルフイメージと、永遠の愛という幻想」という言葉を思い出してください。やおいとは、その本来両立しないふたつの欲望を、齟齬なく成り立たせることの出来る(おそらく唯一の)メディアなのです。

そしてフェミニズム的な批判が、どうもやおいの本質に届かないのは、それはやおいフェミニズムの抑圧の産物だからです。「やおいは男性支配を再生産しているのか?」って、フェミニズム的観点からみたらそれはそうでしょう。男尊女卑的な社会の抑圧がフェミニズムを生み出したなら、フェミニズムの抑圧によって誕生したやおいとそれは、かたちとしては類似してしまうから。

やおいを、ホモフォビックな表現として捉える論−溝口彰子「ホモフォビックなホモ、愛ゆえのレイプ、そしてクィアレズビアン」(『クィア・ジャパンVol.2』掲載)−がありますが、たぶんやおいはホモフォビックというかよりか、究極的にモノガミックだから、「男が好き」というゲイ・アイデンティティーが邪魔なのだと思います…。もちろんそれが、女性としてのセルフイメージの保持のためだけの産物なのだとしたら、やおいホモフォビア以外の何ものでもないのですが。

自立的な自己像を守りながら、男性の同性愛を描くことで恋愛幻想を満たすやおいという表現。それは、なんて都合のよくて優しい、そしてなんて残酷な表現なのでしょうか。やおいが「天動説」から「地動説」になって、そしてどんどんやおいとしての個性を失っていくとしても、私は、やおいはなくなるどころかむしろもっと広がっていくと考えています。フェミニズムが、ではなく、「近代」が、人間の個人としての自立を尊ぶのなら、そうなってくことで引き起こされる孤独感は、別の何かに解消されるしかないと思っているから。やおいを病気だというなら、それは「近代」が引き起こした病に他ならないと思います。


男女逆転時代劇『大奥』

大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))

大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))

よしながが今、やおいというファンタジーから脱却し、女性としてのリアルな葛藤を『愛すべき娘たち』で描き、そして『大奥』で、他ならぬ男女の関係を問い直そうとしていることは、彼女の大きな成長であると思っています。

『大奥』は、架空の江戸時代、男だけが感染する伝染病が流行った後、男女の人工比が非常に不均衡になった日本を描いています。仕事は女性が行い、家も女性が継ぐようになり、一方で体が弱くなり、数も少ない男性は、他の家に嫁ぐか女性たちに囲われる生活をしています。そして将軍も男性ではなく女性であり、そして大奥に集められたのも、容姿端麗な男性ばかりです。そこに奉公に出た下級武士の男性から、大奥の頂点に君臨する将軍、そして男女の役割が逆転した「大奥」の、はじまりに視点がシフトし、物語は進んでいきます。

そこに描かれる男女関係とは、ただ規範的な男女関係が逆転しただけのなのでしょうか。男性は女性に依存し、女性は男性を支配するだけなのでしょうか。それともそのような転倒した形でしか成り立たない、ありえない「愛の対等」がそこにはあるのだとしたら。


不自由であることより、自由であることの枷を

フォローとして、つーかカン違いすんなよとして言いたいのは、私はフェミ二ズムの抑圧下にやおいボーイズラブが生まれたからといって、やおいを否定するわけでも、ましてやフェミ二ズムを否定するわけではありません。そこんとこ非モテ男子とフェミの人よろしく。内田樹センセイが「エビちゃん的クライシス」で、最近の学生がフェミニズムのこと知らないのってそれってやばいんじゃないの?フェミニストさん?と嫌味を言っていましたが、それが彼女達が女であることにそれほど屈託を感じず今まで生きてこられた結果なら、フェミニズムが誇っていいことだと思います。

私は男に生まれたかったけど、なんで女に生まれたんだろうと思ってたけど、もうここまで来たらどっちに生まれても大して変わらない、こっから先は自分自身の問題だなと素直に思えるようになってきました。それは先人たちが、男性社会のなかで必死で男女平等を説いて社会の意識を変え、法律を整備してきてくれたおかげです。感謝しています。(という、決して自分がバックラッシャーでないことの必死のアピール)

ただ、こうも思うのです。あぁ、私たちは、こんなに遠くにまで来てしまったのか、と。恋愛が結婚を保障し、そして「幸せな家庭」を保障すると信じることの出来た時代から、そしてその「幻想」を生きることが出来た「現実」があった時代から、こんなにまで遠くはなれてしまったのだ、と。

しかし時計の針は、決して戻すことはできません。



私達がすべきことは、もはや生きることができない「幻想」に戻ることでも、「現実」に絶望して生きることでもありません。あなたと、あなたの恋人、パートナー、家族、友人その他との関係のなかで、新たに「現実」と「幻想」の姿を問い直すことだ。そして「現実」と「幻想」のせめぎあいのなかに、今を生きるだけの強さと、未来への可能性を見つけ出すことだ。

なぜならば私たちは、不自由であることより、自由であることの枷を選んだのだから。
   
    

大塚英志×村上春樹

村上春樹論―サブカルチャーと倫理 (MURAKAMI Haruki Study Books)

村上春樹論―サブカルチャーと倫理 (MURAKAMI Haruki Study Books)

うわーこれ欲しい!好きな人が好きな人の作品のこと書いてるー!!じゅるり。
でも持ってる本と内容被りまくってそうなのが残念…
村上春樹論に関しては、加藤典洋小森陽一でなく大塚英志が最先端を走っていると思う。

愛の非対称、対等を志向するヘテロ/よしながふみとやおい論1

            

はじめに

私は去年一昨年ごろからよしながふみ先生をリスペクトし始め、東によしながさんがいるとあらば買い、西によしながさんがいるとあらば集めを繰り返してよしなが作品をBLを含め(ってこの人殆どそうだけど)ほぼ集め、とうとう同人誌にまで手を出してしまいました。主にヤフオクで。始まった、私の乙女ロード〜第1章〜

全13章のうち第1章までしか知らないので、相当無謀なことだと思っていますが、これからよしながふみ作品と、やおいボーイズラブについてかなりつっ込んだことを書きたいと思っています。現在プロとして活躍している作家の同人誌を引き合いに出して論じるというのは、ある意味反則ごとかもしれません。特に同人時代からのファンの方は、いいからほっといてよと、私の論に関してネガティヴな意見を持つかもしれません。それでも私はいちよしながファンとして彼女の作品がより深く読まれることを期待して、ホントは外からの反発だけでなく、私自身が触れたくないところまで触れてしまうので非常に怖いのですが、書いてみたいと思います。*ちなみにやおいボーイズラブは厳密に言うと違うものですが、いちいち並べてたら打つのめんどくさいので、女性向けに男性同士の恋愛関係が描かれたフィクション作品のことを「やおい」と一緒くたで呼ばせていただきます。


よしながふみやおいの評価を一変させたか

よしながふみは同人出身でありながらその読者は男女の壁を越え、また、彼女の作品も単なるやおい表現を超え、現代に生きる人間の機微を描いていると高く評価されています。特に主人公二人の恋愛関係だけでなく、彼らを取り囲む人間関係を描くよしながの作風は、『ユリイカ2006年1月号 特集=マンガ批評の最前線』の金田淳子ヤオイ・イズ・アライヴ」で、究極の愛を描く「天動説やおい」と対比する「地動説やおい」の代表として大きく取り上げられています。

「天動説やおい」とは、従来やおいが描いてきた、「究極の対」「究極の愛」というカップル神話を描いたものです。そこでは二人の愛の軌跡が襞を縫うように描かれており、男同士であるにもかかわらず、恋愛、結婚、出産(?!)などの荒唐無稽なファンタジーが存在していることで、やおいは真面目に論じる必要はないと長い間評価される結果にもつながったと私は思っています。一方で評価に値すると論じられるようになったのは、やおい作品のなかに、カップルだけでなく彼らの周囲の人間を描き、二者関係から三者関係へひらいていく「地動説やおい」が登場するようになったからです。

よしながふみも同人、ボーイズラブから『西洋骨董洋菓子店』『愛すべき娘たち』などの非やおい的な作品へ筆を移したことによって、彼女の漫画表現は大きく飛躍しました。今マンガ読みならほとんど知っているだろうと思われる、現在連載中の『フラワー・オブ・ライフ』『大奥』は、こうした彼女の変化によって生み出されたものです。
 

愛の非対称性

ところが彼女の作品が第三者に開かれ、世間から認められるにつれて、一方の同人誌に描かれるカップルの関係が、むしろ閉じていってしまっているような印象を受けたのです。よしながは商業的に成功した現在でさえも精力的に同人誌を描いていますが、その中のひとつ『スラムダンク』の三井×木暮のやおい漫画は特にその傾向が顕著です。三井と木暮が高校生、大学生、社会人へと成長するにつれて、彼らを取り囲んでいたキャラクター達が消え、二人の関係に大きな影響を及ぼすはずの三井の母親が現われても、彼女はフキダシの声や後姿のみでしか描かれません。さらに三井が木暮を支配し依存することによって、二人の関係は強力に閉じていくことになるのです。同人誌のひとつに、このような話があります。

夏休みに旅行へ行こうと約束する二人ですが、その後相手が関係を終わらせようとしているとお互いにカン違いし、連絡をすることを怖れてしまいます。結果二人は三ヶ月も会わず、しびれを切らした三井が木暮を訪ねて一発平手をかました後、連絡をしなかった自分を棚に上げて「死んじまえ てめーなんか」と暴言を吐きます。その後ボッコボコに、それこそ木暮の口が切れて血を流すほど殴った後、「おれを捨てんのか そんなの許さねぇ」とぼろぼろと涙を流した三井に胸キューンと来た後、私ははっと、「しまった…ヤバイ…ここでハマったら戻れなくなる…」と気づきました。

なにがヤバイかというと、彼らの関係は、もし男女のカップルだった場合うわー女に手ぇ挙げやがって最低だなコイツ…とドン引いてしまうような、暴力夫とそれなのにも関わらず別れられない妻と同様の、支配・被支配の関係に他ならないからです。彼らは対等というよりか、むしろドSの三井がM男の木暮にめちゃくちゃ依存している、木暮も強く愛されたいと思うがゆえに三井の罵詈雑言、暴力、レイプまがいの行為を許容してしまう、ぶっちゃけたら二人は共依存状態なのですが、男男だとむしろ激しい愛情の発露、こんなに相手のことを愛しているのねん……(*´Д`)ポワワとドリームしてしまう…。でもこれ冷静に考えたら完全にDV!DV以外の何者でもないのです…

三井と木暮の関係は従来のやおい論に顕著な、攻め/受けイコール男性的/女性的、支配/被支配の関係を描いていますが、それはひとつの例として挙げただけで、現在のやおいカップリングには多様なバリエーションがあります。「わんこ攻め」や「俺様受け」(分からない人は…、ググってください…わんこ攻めは最初獣姦かと思った)などの受け攻めの多様さ、さらにそれをどう組み合わせるかが大きな問題になってくるやおい漫画は、たしかに「位相萌え」であると言えます。

 ただここで私がはっきりとしておきたいのは、いくら少年がオヤジをアンアン言わせていようが、受けが日常的に攻めに暴力を振るっていようが、そこにあるのはあからさまな愛の不平等なのです。やおいに描かれる恋愛関係は、対等というよりか、むしろ往々にして依存的であり、恋愛の非対称性が明らかになるフィクションです。実際、抑圧的なヘテロセクシャルであっても、その縛りがないホモ・バイセクシャルであっても、お互いを同じぐらい愛することなど不可能です。いや僕らは同じだけお互いを愛していますと宣言するカップルがいたとしても、時々の局面においてはどちらか一方が支配し、またどちらか一方が支配されることを選んでいるに違いないのです。

SかMかの二元論で語るウザイお笑い芸人というわけではないのですが、――やおいが男性同士の恋愛ファンタジーで、彼らが決して妊娠することはないとしても――「全てのセックスはレイプである」。つまり二者の力関係があからさまになるのは、恋愛関係をおいては他にないのです。


近代が愛を保障していた

そして私は、恋愛関係を含めた全ての人間関係において、「対等の精神」はありえても、全くの寸分狂わない対等というものはありえないと考えています。対等・平等というものは本来、近代的自我を持った独立した個人の間に発生するものですが、そもそも一人で生きられるような人間は恋愛なんかしないわけです。人は自らを肯定できないからこそ、他者からの肯定を求めてしまう。

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

『愛すべき娘たち』第3話の莢子は、愛の不成立を、その生き方ごと体現した稀有な存在だったと思っています。共産主義者だった祖父から「決して人を分け隔てしてはいけないよ いかなる理由があっても人を差別してはいけない 全ての人に等しくよくしてあげなさい」と育てられ、実際そのように誠実に、純粋に生きた彼女。しかし彼女は結局、誰かを愛するということは、それ以外の人々に分け隔てをもうけて接することだと悟ってしまいます。

ベルリンの壁が崩れたとき、理想の時代が社会主義と共に終焉したとき、近代が保障していた愛の平等という幻想もまた、同じように終わりを迎えたのではないでしょうか。キリスト教のシスターになってしまった結末にはびっくりしましたが、絶対的な倫理も思想もないモダン以降を生きる私たちにとって、不安定な自己を形付けてくれるのは、宗教と恋愛ぐらいしか残っていない。その恋愛からすら疎外された彼女が、神という外部へ向かってしまったことは、オチでも反則でもなく、マンガという表現だからこそ届く、ある種のリアリティとして捉えたいと思います。


対等を志向するヘテロ

ここまでの結論として、やおいとは「究極の愛」を追求するファンタジーであり、またこれを突き詰めるからこそ、描かれる恋愛は往々にして依存的・非対等的な関係になってしまうのではないか、と私は考えています。一方でよしながのやおいを「地動説やおい」たらしめているのは、やおいカップルにとって他者である女性の存在を、美化も貶めもせず読者と同じ等身大の女性として描いているからなのですが、彼女たちは男同士が愛し合い傷つけあうやおいとは対照的に、社会で必死に生きようとする、自立的な女性として描かれています。男性に依存的な女性キャラクターを描くときでさえも、(たとえば『愛すべき〜』の第2話や4話、読みきり「ある五月の日」)あるときは冷徹に、あるときはおかしく、そしてあるときは優しい眼差しで描いています。そこにあるのは、彼女のフェミニズム的な視線です。

1限めはやる気の民法 1 (ビーボーイコミックス)

1限めはやる気の民法 1 (ビーボーイコミックス)

『1間目はやる気の民法』には、主人公カップルのよき理解者・寺田という女性が出てきます。彼女には、付き合っていた彼氏(大学の先生)に勝手に雑誌に裸の写真を送られてしまうという事件が起こり、それによって彼女は窮地に立たされるのですが、機転を利かせてなんとかやり過ごします。確かに、寺田は彼氏のことを訴えるような下手なことはしないし、ひどい言葉を投げかけた担当教官や父親に対して、中指立てて立ち向かうこともしません。彼女は最後に、自分のように理不尽な目に遭っている人がいるなら助けたいと、弁護士になることを決意するのです。

寺田は彼氏を訴えるべきだったかも知れないし、周囲に立ち向かうべきだったかもしれません。政治的にはそれが正しいのでしょう。ただその選択を選んだ時、彼女は今以上に傷つくだろうし、愛していた彼を傷つけることにもなります。男性中心的な社会に対する真正面からの批判ではなく、現実に生きる女性たちが持ちうる精一杯の抵抗を示し、そしてその問題を自己の自立へと持っていった彼女の姿は本当に美しい。そこには決して過激的でも思想的でもない、ごく普通の女性が持ちえるフェミニズムの存在があります。こういう女性像を描けるからこそ、よしながは凄い漫画家なのです。
よしながらの描く女性像は、全てがそうであるとは言えないけれど、悩みながらも成長していこうとする等身大の女性です。やおいは、閉じた二人だけの関係から、このような女性像、家族や友人との関係を提示することで、腐女子だけでなく一般にも広がっていくと考えられ、一方でそうすることによって「究極の愛」を描くやおいジャンルはやおいとしての個性、強度を失っていくと、金田淳子は「ヤオイ〜」の中で述べていました。私もそうだと思います。

ただ私は、こうも思うのです。

「地動説やおい」のなかでは主人公カップルの究極の愛は、周囲との関係の中で相対化されます。そしてそんなヌルいやおいになったとしても、それでも彼女達が表現しようとしていた愛とは何だったのだろうかと。

自立的なセルフイメージと、恋愛幻想を共存させることのできるやおいとは、よしながにとって、そして彼女の読者である私たちにとって、どのような意味を持つのでしょうか。そして男女の関係の中にやおいのような恋愛幻想を描けないとしたら、一体何が私たちを立ち行かせなくしているのでしょうか。



―――というのはまた長くなるので、本題は次回に続きます。とりあえずよしながさんの作品を俯瞰できたのはよかった。凄く時間かかったけど。





フラワー・オブ・ライフ (3) (ウィングス・コミックス)

フラワー・オブ・ライフ (3) (ウィングス・コミックス)

『フラワー・オブ・ライフ』めちゃくちゃおもしろいですね。特にシゲと真島の恋の行方が気になってしまいます。二人の、三十路手前の負け犬と最終形態オタクという組み合わせは、昨今の「もうオタクと付き合うしかない?!」言説を上手いこと外してはるなぁと感心しきりです。またシゲと真島はけっこうなSM関係状態なのですが、小柳先生とのしょっぱい不倫関係と比べギャグテイストなので安心して読めます。ていうか、たぶんシゲはM女なのをやめないと、どっちとくっついても幸せになれない気がします…。シゲ…そんなんでいいの?いや本人が幸せならいいけどむしろ楽しんでそうだし確かに私も真島のようなメガネと付き合いたいよ?でもシゲ…シゲええええええ!!


よしながふみとやおい論2 へつづく

ブログ更新のモチベーション回復中

久しぶりだわ…長いの書こうとするから全然更新できないのは分かっています。身の回りに起こったちょっと素敵なことを面白おかしく書けばスイスイ更新できるはずなのに、自分自身がくそつまんねー人間だからそんな素敵なことなんて起こんねーんだよ、正味の話。ただ私が、Gがアパートに出ちゃったぁ〜ちょぉ怖いよぅp(>Д<)qダレカ助けて〜!!!みたいな記事書いて周知の目に晒したとしても、宇宙ぜんたいになんのプラスももたらさないことだけは確実に言えます。出たけど。かといってメモみたいな短い投稿繰り返してもつまんない。

だから結局は薄い脳汁搾り出してでも書くしかないのだということに、全くもっていまさら気づきました。毎日のように更新している人気サイトさんは本当にゴイス。便所の落書きのようなブログなのに、記事投稿するの精神的エネルギーが非常に要ります。例えるならとんでもない急な階段なんですよ?子供ならハイハイしないと上れないくらいの。おばあちゃんが滑って転んで寝たきりになっちゃった。渡辺篤史もどう誉めていいのか困りますこんな殺人階段。でも正直、便所に落書きするのって実はすごい勇気が必要なことだと思う、正味の話。

というわけで上に続く。

相関図見ただけで分かった気になってんじゃねーよ!(→自分)

ネットの海を泳いでいると、注目されている話題には必ず相関図とか関係図が作られているのに気がつきます。mixi相関図作成ソフトとかドラクエからガンダムまで。ネットに転がる相関図・家系図まとめとかね。blog連合閉鎖祭りまとめサイト・戦況図は、出てくるだろうと思ったけど感心しました。自分達がその聖戦の当事者であるのにも関わらず、それを相対化する「関係図」をつくってしまうVIPの人たちのクオリティタカスです。すげー。

アニメやラノベは相関図作りやすいキャラクター作品だからってのもあるんでしょうけど、現実に起こった事件や問題の相関図まで作るのって、クラスメイトの人間関係を矢印でノートに書き綴っていたかつての私ですか?それ。(したかもしれないけどしてないかも。多分やった。小学校の時のことって都合のいいことしか憶えてない…)

相関図はもちろんその問題を理解するための大きな手助けになります。現代思想でも科学でもなんでもいいですが、「○○○モデル」だとか「○○の構造」と称して図を援用し説明するのがもっとも分かりやすい説明であると思います。ところが一方で、その図を作った・見ただけで分かったような気になっちゃう、その問題の外部に自分が立っていると錯覚してしまう効能もおまけでついてくるのです。mixi相関図なんて最たるものでしょう。そこでは自分を取り巻く人間関係が相対化できると考えられていて、自己というものすら、マイミクによって関係づけられるだけのもの、実体を伴ったものではなくなってしまう。
だから↑のまとめサイト祭り相関図は、おっそろしいまでに的確に2ちゃんメンタリティを表していると私は思っています。見てください!この絶対的なメタ視線っぷりを。

こういう方法には私もものすごく身に覚えがあって、授業のレジュメで登場人物の相関図作って悦に入って発表したりとかしているのです…。どうも自分の文学の読みは構造主義的な気が。作者の内面を文学的な美しい言葉で掘り下げている発表者がいるとホント羨ましい、くやしい。踏んづけてやりたい。髪の毛ひっ捕まえてブンブン振ってやりたい。かといってそういうやり方を反省しつつも、いざやるとなるとそれしかできない女なのです、ああぁぁあ…。そしてそういう思考体系は、私の考え方行動すべてに関係しています。

私は相関図を見るのが好きです。そしてなるたけ自分で関係図を(脳内で)書き出そうとしてる。それは自分がサブカルにばっか親和性が高い人間で、いろんなことを基本的に信じていないからです。でもなんだろだからといって、メタ視できただけで分かったような気になりたくない、それこそ視野狭窄に陥る可能性があるということを、胸に留めておきたい。相関図にあらわせないこと、そこから零れ落ちるものを掬い取りたい。分からないことに怯えたくない。これはあくまでも自戒です。

シミュラークルの臨界点

2ちゃんねるコピペサイトが軒並み閉鎖を余儀なくされています。和田義彦盗作疑惑もそうだし、そのほかにもこれは少し前の事例ですが、村上隆のDOB君著作権騒動だったりとかのまネコ問題とか、著作権問題には話題が本当に事欠かない。
サイトが実際に儲けているかどうかは、この問題にあまり関係がないと私は思っています。アフィリエイト貼り付けなければ著作権に関して免罪されるというわけでもないし。そんなこと言ったら2ちゃん系以外のネタ系ブログ、ニュースサイトだって著作権引っかかります。私のだって著作権引っかかりまくり…。高度消費社会以降に生きる限りは既存の作品をコピーし、パロディ化しなければ新しい作品を生み出すことはできません。むしろ私達は社会や世間をどこか信じきれないゆえに、2次消費物のほうにより親和性を感じてしまいます。

「他人のふんどしで相撲を取るな」「パクリ」とVIPPERの皆さんは批判しますが、どっこい批判している人たちのいる2ちゃんねる自身も、コピペ改変やAA(アスキーアート)の手法に表されるように、既存のアニメや漫画、歌などのポップカルチャー、さらには北朝鮮や日韓中外交などの社会問題、ホリエモンに美代子の実在の人物など、社会自体をパロディ化することによって成り立っています。もはや懐かしい「もすかう」「恋のマイアヒ」「VIP☆STAR」、最近では「黄門様から大切なお知らせとお願い」ですか、あれも全て既存の作品のパロディでしかありません。自分はパクるのはいいけど、パクられるのは嫌よという言い分が通るのは、ひとえに2ちゃんねるが絶対的に外部からメタレベルに立とうとする共同体であるからと私は考えています。

村上隆の「私が生きている現代アートの世界はオリジナルであることが絶対的な生命線です。」という言葉に象徴されるように、もはや作品を作る場所においては、オリジナルをいかにコピーするかに作り手としてのオリジナリティが発揮されると考えられています。ここではむしろ作り手と受け手が同等であるというよりも、むしろ作り手を越えていかにそれをズラすか、つまりよりメタレベルに立つことに特権性が求められています。

2ちゃんという内部にいる限りはどんな引用もパロディも許されますが、外部にそれを持ち出すことは特権性の剥奪、2ちゃんねるという共同体の崩壊を意味します。特に今まで問題にならなかったまとめサイトは、あくまでもまとめであるのでサイトの管理をスレの一住民が行い、利用するのもそのスレの住民です。そこでは2ちゃんの共同体がそのまま保持されることになり、特権性を脅かす他者は存在しなかった。せっかくサイト作って掲示板も用意したならそっちでカキコすればいいのに、メインはやっぱり2ちゃんのスレでありまとめサイトは補助的なものでしかないのです。(たぶん住民しか見ないからアフィ貼っても怒られなかったと思います。)ところが今回問題になったサイトは、2ちゃんを引用・転載し不特定多数に晒すことによって、さらに2ちゃんが外部と交換可能であることをアフィで明らかにしてしまうことによって、外部から常にメタレベルに立とうとする2ちゃんねるの特権性を侵してしまいました。

2ちゃんねるはすべての商品、社会問題や事件を飲み込みオリジナルのコピー、コピーのコピーを生み出しました。しかしもうそこからそのコピーはどこへも行くことができない。そこで、全てのシミュラークルが生まれそして消えていきます。つまり2ちゃんねる便所の落書き痰壷であるのと同時に、シミュラークルの墓場でもあるのです。

しかし、2ちゃんねるはその特権性を守るにはあまりにも巨大になりすぎてしまっています。そしてその図体を保持していくには、外部に対して今回のように攻撃を仕掛けるなど、閉鎖的にならざるを得ません。

「物語消費論」で大塚英志は、生産者と消費者の境界のない消費社会が到来すると予言しましたが、それは電波男が夢見る幸福なユートピアでは決してなく、どちらがよりメタレベルに立っているのかを巡って熾烈な抗争を続ける、殺伐としたサザンクロスシティみたいな世界だと私は想像しています。それが記号としての<モノ>と戯れ続けた私達の、終点が玉座の間とは上出来じゃないか。