星を見ることはまるで… 江國香織「きらきらひかる」

えーっと放置しっぱなしでしたが、一週間ぶりに書きます。まあ誰も見てないから自分のペースで書けばよいのです。

 江國香織…実ははあまり好きではありません。じゃあなんで取り上げるんだよという感じですが、事実彼女の作品は2,3冊しか読んでない…しかも学校の課題のみ。なんで苦手かというと、彼女の作品に表れる「モロゾフのシュークリーム(しかもコアントロー味)」「ジンとキュンメル」「クロスビーのWhite Christmas」とかの、日常に溢れかえる食事、ブランドの固有名詞が、私の田舎者コンプレックスというか貧乏コンプレックスを刺激してやまないからです。彼女の作品はぽわぽわしている、少女マンガチックだ、と評されますが、むしろ80年代的消費社会を通り過ぎた乙女チックというべきか。作者1964年生まれらしいのでバブル世代ドンピシャですね。だいたいこの江國的世界の物質的豊かさはいったい誰が支えてるんでしょ?男に見えないところで働かせておきながら、自分はブランド物を消費するだけ、で、ほんとの私を愛して欲しい?はぁ?甘っちょろいこといってんじゃねーよ!と女のずるさが透けて見えるようで嫌なんです。

では、悪口はその辺にして本題にいきます。

きらきらひかる (新潮文庫)

きらきらひかる (新潮文庫)

 主人公笑子(アル中のメンヘラー)は、同性の恋人がいると知りながら、ゲイの医者睦月と結婚します。白馬の王子さまのような中性的な睦月と、日に灼けた青年ぽい描写の睦月の恋人、紺。男性二人がいかにも…で、普通に笑子は腐女子か?と考えてしまうところですが、江國作品にはこれ以外に腐を漂わせる作品など書いていないので、純粋に睦月と紺の同性愛は、魂と魂の結びつきである至上の愛を取り出してみせるための装置だと見るほうが正しいんでしょう。(そのお前が男なんて関係ない!お前だけを愛している!!とゆー欲望こそが腐女子の最大の望みだという気もしますが)

 そんな笑子と睦月が、キスもセックスもしない、「ごっこみたいに楽しくて、気ままで都合のいい結婚」生活を暮らし始めます。笑子は常にこのままでいい、なにも変わらなくていい、と思うのですが、笑子の両親や親友の瑞樹は子供を持てと急かし、睦月の母親にいたっては自分の息子がゲイである事を知りながら人工授精(!!)まで勧め、二人に子供を持つよう強制します。それに対し、睦月との生活を維持したい笑子は平気で嘘をつくし、人工授精までして子供をつくっても構わないと思うようになります。「こういう結婚もあっていいはずだ。なんにも求めない、なんにも望まない、なんにもなくさない、なんにもこわくない。」

 ところが笑子の睦月への恋愛感情の高まりによって、その睦月との生活に破綻の兆しが見えるようになります。そりゃそうでしょう。人を好きになったら、求めずには望まずにはいられないし、その愛が失われるのを恐れてしまうでしょう。笑子は周囲の圧力に悩んだときというよりか、むしろ自分の望んだ生活と睦月への愛情との葛藤が生じたときに情緒不安定に陥ります。そして笑子は紺の存在を認めているようでありながら、実際は睦月の恋人である紺に嫉妬を繰り返します。紺に恨み節をぶつける代わりに、紺くんの木と名づけられたユッカエレファンティペスに「血のような」トマトジュースや紅茶を飲ませるわ物を投げつけるわ。いやー怖いっ。一番怖かったのは笑子がカルフォルニアオレンジと偽って、紺がすっぱいと言っていたフロリダ産オレンジのジュースを搾って飲ますところです。女の嫉妬って怖すぎます…。これはhorror!!ホラー!!そしてそれをスルーする睦月も怖い…。 しかしそうやって相手とひとつになりたいと欲しても、人間は生まれたときから死ぬまで、ずっとひとりでしかありません。相手のことを理解しようと思っても、100パーセント理解することなど出来ないし、自分と相手を物理的にひとつにすることも出来ません。これ真理ですね。

 寝る前に星を眺めるのが習慣の睦月は、いつもことあるごとに星を眺めています。星を見ることはまるで、人を好きになることではないでしょうか。六百光年の距離をこえて届くリゲルの光、十一光年のプロキオン、五十光年のカペラ。月や星たちは夜空に確かに存在しているのに、手を伸ばせば届きそうなのに、決して触れることも手に入れることも出来ない。笑子もいつも睦月のそばにいるのに、手を伸ばせば触れるほど近くにいるのに、睦月の心を完全に手に入れることは出来ない。

あーなんか書いててせつなくなってきたわ…

 一度睦月と紺の関係に目を向けてみます。紺は昔、闇の中に無数の星がきらめいている絵、夜空の絵を描き、睦月にプレゼントしました。睦月はそれが紺から自分へのラブレターだと分かる。だからこそいつも彼は夜、星を見るのではないでしょうか。まるで紺のラブレターの返事のように何度も。二人はおそらく、キスをしてセックスをしてもそんなことは何の助けにもならない、ひとつにはなれないことを知っています。そして人はひとりであるからこそ、誰かを愛さずにはいられない、その人とひとつになりたいと思ってしまうことを知っています。笑子もはじめはよその星なんて一生いけないから興味がない、と言っていましたが、ある時月や星のその遠さ、愛する人には決して近づけないことに気づき、望遠鏡を目におしつけたまま涙を流します。

 物語の終盤、紺が突然姿を消します。「紺くんがいなくなって淋しい?」という問いに、淋しいというよりとまどっていると答えた睦月に、泣きながらしがみついてきた笑子。そのくちびるから漏れる湿った熱い息。睦月の髪をしっかりとつかんでいた、白くて細い指。決してキスもセックスもしないけど、ふたりはこうやって抱き合うことによって一瞬でもひとつになった、と感じることが出来たのではないでしょうか。ここに笑子と睦月、二人の愛の頂点、クライマックスがあります。そしてその二人の愛の頂点は結局、笑子、睦月、紺の三人による不安定で、いつ壊れるかわからない生活へと帰結します。

 この作品のすばらしいところは、少女マンガ的な男性の理想像=睦月を登場させておきながら、結局は二人が結ばれるわけでもないまま終わるところです。少女マンガには他者がいない、主人公の恋のお相手は作者の理想の投影であってそんなもん現実の男性とは違う、という指摘は散々されてきましたが、笑子は異星人である羽根木さんはともかく脳内恋人である睦月とですら、少女マンガのようなハッピーエンドを迎えることが出来ませんでした。少女マンガの奇妙な反転。だからこそ恋愛の本質、ひとつになれない切なさが浮き上がるのではないでしょうか。少女マンガチック、現実から浮き上がったような作風。確かに。でもね、リアルな恋愛じゃないけれど、恋愛のリアルはきちんと書いてますよ、これ。とりあえず江國さんの作品はこれだけ読んどけばいいのでは?




ちなみに「きらきらひかる」の英語翻訳版のタイトルは「twinkle twinkle」でした。「きらきらひかる」のってやっぱり夜空の星??だよね?

Twinkle twinkle little star. How I wonder what you are.