モノガミックな同性愛と、ラディカル(?)ヘテロセクシュアリティ 江國香織「きらきらひかる」

    

ごめ、この本について書くの2回目なんですけど、ここ最近のエントリーと繋がる内容なので、ジェンダー論っぽく書いてみます。あと、前書いたときと考えが少ーし変わったしね。でもやっぱり江國香織好きじゃないよーぅ。この本+3,4冊くらいしか読んだことないし、授業で取り上げられた以外には読もうとも思わないなぁ。読んでると無意識のうちにさむいぼが…

きらきらひかる (新潮文庫)

きらきらひかる (新潮文庫)



はじめに

この作品の最大の特徴は、主人公である笑子の夫に睦月という同性愛者を設定したところにあります。ゲイある睦月には紺という当然ながら男の恋人がいて、それによって夫婦二人の関係はただのヘテロセクシャルに閉じることなく、その性はゆるやかに外側へと開かれています。笑子と睦月そして紺による、まったく世間の常識から外れた三角関係は、異性愛、結婚制度、出産etc…形あるものをすべて無化しながら、男と女の“対”関係に代わる新たな関係を提示しているのでしょうか。むしろ“男女”の“対”の関係をギリギリまで突き詰めたからこそ、逆説的にそうではない関係が選び取られただけに過ぎないような気もするのですが、それはやはり何ものにも囚われない形なき愛、の獲得のための行為なのでしょうか?未だに私は答えが出せないままです…


逸脱者としての銀のライオンたち

自ら進んで同性愛者である男性を夫に選んだ笑子は、社会の規範的な結婚制度である一夫一妻制を支えるオンリーユー・フォーエバー、つまり愛する人(異性)を一生かけて愛するという幻想を信じることができない女性です。かつての恋人羽根木さんから「ショーコちゃん、キミはフツーじゃない」と理解されることを拒まれ、一体感を伴う恋愛の成り立たないことを悟った彼女は、いわく「私は愛情というものを信用していない」。モノガミーとは近代的な一夫一妻制の婚姻形態のことを指すが、ここではむしろそれを支える幻想、志向なども含んでいると考えたい。そのモノガミックな関係が成り立たないことに傷ついた笑子は、そうではない(と思われている)人達―睦月や紺などの同性愛者との関係を求めます。しかしそれに傷ついているということは、笑子は間違いなくモノガミーの信仰者なのです。

笑子の考えるそうではない人達−つまりは同性愛者特に男性同性愛者は「一晩に何回もセックスをする」「エイズの流行の原因はホモ」とフォビアの対象になったように、ヘテロの男女に比べより好色で乱交的であると、社会的に誤解され、現在もそのような状況は続いています。(だからといって、ゲイやバイであってもモノガミーな人は存在する、そういう人の方が大部分であるって言うのも新たな差別を牽引するだけじゃないかなと思います。結局、ポリガミーに比べモノガミーが優位であることは揺るがないのだから。)笑子も4章−訪問者たち、眠れる者と見守る者において、とんでもない誤解をしていることが分かります。モノガミーが男女二元制やジェンダーの相互補完性(という幻想)を前提にして成り立っているのに対し、その前提のない同性愛とはノン・モノガミー的です。そして、モノガミーという社会的制度から逸脱している点において、確かに彼らも笑子も同じく、みんなとは違う、草食で早死にの「銀のライオンたち」なのでしょう。


しかし「きっかけは紺」「僕は男が好きなわけじゃないよ。睦月が好きなんだ」と紺と睦月の二人の関係が明らかになるにつれて、笑子と睦月の距離を孕んだ関係がどんどん不安定なものになっていきます。紺と睦月二人の関係は、乱交的どころかよりモノガミックな、そしてヘテロのように結婚制度に保障されないがゆえにより純化されたオンリーユー・フォーエバー幻想そのものの関係を描いています。「きらきらひかる」がやおい的、ボーイズラブ的といわれる所以は、男性同性愛者の恋愛を描いているにも関わらず、その主題は少女マンガと同じく「オンリーユー・フォーエバー」であるからです。

きっと特別な絵にちがいない。僕の肖像かもしれない、なんて期待してたのに、それはただの夜空の絵だった。闇の中に無数の星がちらばっている、それだけの絵なんだ。あげるよ、と紺は言った。分かってもらえるかどうかはわからないけれど、僕には、その絵が苦しいラブレターだってことがよくわかった。(11章 星をまくひと)

紺と睦月の、星空を介した二人の応答は、恋愛の本質を問いているように思う。星は美しく輝いているけれど、決して近づくことはできない。何万光年もかけて地球に光が届いたときには、もうその星は爆発して消えてしまっているかもしれない。作品中何度もあらわれる星と月と、それを見上げる睦月の姿は、恋愛において相手とひとつになることの不可能性と、しかしそれゆえ相手を求めてしまう恋愛の本質を表しています。

モノガミーの隠れた信仰者であった笑子は、「よその星なんて一生行かれないもの。興味ない」と一度はばっさりと切り捨てた「オンリーユー・フォーエバー」への憧れを、社会制度に保障されるヘテロ以上によりモノガミックなホモによって揺さぶられます。当然ながら親密な関係と執着・所有欲は完全に切り離すことはできない。しかし睦月というあらかじめ恋愛の不可能な存在を選んだ以上、笑子と睦月の間に「オンリーユー・フォーエバー」は発生することはありません。むしろ笑子は、一体感の不可能を自覚し、恋愛における自我の消滅を恐れたからこそ睦月を選んだのではないのか。


距離を生きる

笑子はこの作品の中で、アル中の情緒不安定な人間に造形されています。情緒不安定とはすなわち、他者と自己との距離をうまく掴めない自己矛盾のことであり、それゆえ彼女は同性愛者である睦月を夫にします。経済的・社会的には笑子を守ってくれる夫でありながら、自らを性的対象としては決して求めない睦月。彼はハリネズミのジレンマに陥っている笑子にとってまったく相応しい存在です。しかし彼女がひとたび睦月を異性として恋愛感情を抱いてしまっても、はじめから恋愛成立の不可能な二人の距離は一向に縮まらず、またその距離ゆえに笑子は睦月にいっそう依存してしまう。冒頭の、星を眺める睦月を彼女は真正面に見据えることはできず、「横顔」にしか形容できない。二人の間に「距離」は確固として横たわり、その「距離」こそが二人の関係を動かす基軸となります。

運命の相手と、あまたの障害を乗り越え、最後には「頂点」に達する…そのようなプロセスと恋愛を同一化するのは、近代教育や文学の浸透による非常に歴史的なものです。近代文学に書かれる恋愛とは、その「理想」と「現実」の齟齬の産物であり、少女漫画もまた恋愛を「至高性」「純粋さ」「高み」と捉え、その理想をいかに獲得するかに心血を注いできました。ところが少女漫画自体の質が変化し、異国の少女が繰り広げる華麗な舞台から、恋愛を学園という日常に持ち込んだ「乙女チック漫画」へ、そして今ではセックスも中絶も浮気も、実際に起こりえることとして描き出すようになりました。以前の少女漫画に描かれた恋愛が、自他の差異を無化して一体感を志向するものであったとするならば、現在の少女漫画は、自他の差異を認めた上での多様な関係を描いています。64年生まれである江国さんもきっと、熱心な少女漫画の読者ではなくとも、その時代を生きた少女として少女漫画の変遷を直に体感しているはずです。

ひとつになるのが不可能ならば、それでも相手のそばにいたいと思うなら、決して埋められない距離を生きるしかない。そして笑子のヘテロセクシャルな欲望は、自分と睦月、そしてその恋人・紺との三人による共同生活へと結びつきます。


「水を抱く」「水の檻」とあらわされるように、笑子にとって睦月とは穏やかで優しい、しかし掴もうと思うとするりと手からこぼれてしまう水は、そのまま他者から影響を受けることのない、ホメオスタシスのような睦月自身を表しています。彼の安定した意識を動揺させることができるのは、最後まで笑子ではなく、双子の片方と形容される、星空でつながっている紺でしかない。「星」が1×1のモノガミックな欲望を象徴するものならば、一方の「水」とは、その欲望を断念した後の、距離を孕んだn×nの関係性をあらわしています。そしてこの物語は、笑子が睦月のかたちづくった水のような空間に、本来なら敵対するはずの紺を招き入れたところでエンディングを迎えます。

白い壁、白い天井、大きな四枚羽根の飾り扇風機。ここは僕たちの部屋にそっくりだ。淡い色の液体を飲み干すと、ラジオからなつかしい曲が流れてきた。ビリー・ジョエルだ。僕は、なぜだか泣きたいような気持ちになった。不安定で、いきあたりばったりで、いつすとんと破綻するかわからない生活、お互いの愛情だけで成り立っている生活。(12章 水の流れるところ)

僕たちの部屋にそっくりだということに気づいて、笑子が睦月との埋められない距離を生きることを決心したことに気づいて、ひとり睦月は泣きそうになります。ここでせつない「距離」を孕んだ関係は完全に転倒し、相手をその差異ごと受け入れる余裕へと変化しています。その空間には「紫のおじさん」と呼ばれるセザンヌの自画像も、紺が二人への結婚祝いに送ったユッカエレフェンティペスの木も、三人を祝福するかのように存在している。結婚・社会制度を無化し、ヘテロセクシャルを相対化し、なによりもをいったんは受け入れたモノガミックな欲望を、究極的に問い詰めることによって解体するに至ったその三人の関係に、もはやなんの制度性も読まれてならないはずです。


きらきらひかる」というタイトルが示すものとは結局、夜空に輝く星のことなのか、それとも光を反射しながら揺れる水面のことなのか、どちらとも判断がつき難いと思います。うっとりするような他者との一体感なのか、それとも相手との違いを認め合える余裕のことなのか。私は、作者はどちらの感情も祝福し、肯定しているように思います。少なくとも、ラディカルであるかそうではないかという点のみにおいて、その感情の善悪を下すべきではない、と私はそれだけは強く思うのです。